錦織の紹介

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錦織の歴史物語

東和町錦織の内ノ目に古い城跡として知られている湖城跡があります。この城跡の北側にとなりあって機織沼と呼ばれる沼があります。

この機織沼は、むかしは、舟不入沼(ふねいらずぬま)と呼ばれ、人はもちろん舟も入れない沼だったそうです。なぜならば、あとにのべる伝説があったためとも言われます。

この沼の深さが底知れず、いったいどの位深いのか分からなかったと言われています。晴れて雲のない時には弁財天女(べんざいてんにょ)の機織の音が沼の底から聞こえて来ることがあったそうです。それで「機織沼」と呼ばれていたそうです。

この沼には、こんな話が伝えられています。

ある年の冬のこと、西郡(にしごうり)の殿様がこの沼の辺りに狩りにでかけました。その時、一羽の鳩がとんできたので、鉄砲でうったところ、うまく命中しました。ところが、その日は寒い風が強く、うたれた鳩は風に吹き流されて、沼の沖におちてしまいました。そこで殿様は、家来の高橋という水泳の上手な人に、それを取ってくるように命じました。高橋は寒中でしたが背に刀をくくりつけ泳いで鳩を取りにいきました。そして鳩を取り上げた時です。足に大きな「うなぎ」がからみついてきました。高橋はあわてずに背にくくりつけておいた刀をぬき、足にからみついていたうなぎを切り払いました。そしたら沼の水が真っ赤に染まったと言われます。

それから幾日かたったある日、高橋が舟に乗ってうなぎを切った辺りを渡ったところ突然、大波がわきあがり、舟がくつがえされ、高橋は沼の底に沈んで見えなくなってしまったということです。

その話を聞いた村人たちは、きっと沼の主のたたりだろうと思い、小さい祠(小さいお宮)を建て弁財天をまつったところ、その後は何のたたりもなく、無事にすごすことができたそうです。それで今では、漁をする舟まで浮かぶようになったと言われています。

また、この沼には別なお話しもあります。

むかし湖城に西郷新左エ門という殿様がいました。新左エ門は大変武勇にすぐれてた殿様でした。

新左エ門の主人にあたる葛西氏が伊達氏にせめられた時、桃生郡和渕という所を守る大将として出陣しました。奥方は、新左エ門の出かけた後は、毎日機を織りながら、主人や家来たちが戦いに勝って、無事に帰ってくることを願いながら待っていました。

しかし葛西氏は破れ、新左エ門は戦死してしまいました。その知らせが湖城につくと、奥方は大変悲しみ、その上自分たちの住んでいる城も敵の手にわたることになるので生きていく望みをなくし、城の北側にある沼に身を投げて死んでしまいました。

その後、静かな日には、夜・昼となく沼から機を織る音が聞こえてきたそうです。そしてその音を聞いた人は、死ぬと言われていたそうです。

そこで村人たちは、弁財天をまつり奥方の霊をなぐさめたところ、その音が止んだと言われます。

また奥方が身を投げた日が7月6日なので、この日に機の音が聞こえてきたとも伝えられます。

このことがあってから、この沼を機織沼と呼ぶようになったとも言われています。

嵯峨立甚句は、古くは浜甚句を本唄とすると言われている。農作業唄として地域の人々に親しまれて来た。素朴な歌詞と旋律で踊られているが、その振りが1番から5番まで違うことは、民謡としては珍しいことと言われており、昭和54年度、全国民踊連盟指導種目に選ばれた。

 一、唄いなされや 声はりあげて 唄は仕事のはずみもの
 二、音にきこえし 嵯峨立薪は 広い世間でホンに飯となる
 三、花の三月 十九日の祭り 錦かざりて駒勇む
 四、嵯峨立娘は 愛嬌もよいが 山に住むせいか声もよい
 五、たとえ細くも 煙をたてて おなじかまどでくらした

弘化年間(1840年頃)嵯峨立普慶院第25世仏心得宗大和尚により伝承されたと言われ、当時は法印神楽であったが、明治の初期より南部神楽に変り、修験道賀多羽流嵯峨立神楽と称し、現在に至っている。

昭和34年に保存会が結成され、だしものは祝言の式三番、翁舞、鳥舞、三番叟と中世期物語(源平合戦など)を含めて、15番くらいである。

錦織の特産品

ニンニク

ゴボウ

りんご

北上川沿いの肥沃な耕地で生産される主に根野菜類(ゴボウ・里芋・ニンニク・長芋・ニラなど)は、品質が良く、これまでも県品評会等で県チャンピオン(県内一)になったことが度々あり、仙台市場等から太鼓判をおされています。

また、地域北側・川沿いの大清水地区は、昔からりんごの産地として知られ、津軽・ふじ・スターキングなどが好評で、リピーターが多くなっています。